誰が読むのかもわからないこのブログ、アクセス解析なども特にとっていない。
アメブロと違って、コミュニティ機能があるわけでもない。
でも、誰のためでもなく、自分の為に書いているので、良しとする。
二日前に、だいぶ弱気なブログを書いた。
本当の自分だから、うそ偽りなくそのままだ。
だが
でも、否定するのも逃げるのも終わりにしよう。
今年は、しっかり、向かい合おう。
そう決めた。
と書いたのは言葉通りだ。
病院にでも行こうと思ったが、何か違和感を感じたので、それはしなかった。
昨日思い立って、古い友人であり、同志であり、師匠でもある、コーチングをしている仲間に思い切って相談をした。
忙しい仲間であるが「なんとか時間こじ開ける。待ってて」と言ってくれて、本当にその日の夜、つまりは昨夜時間を作ってくれた。
仲間は、僕が落ち込んでいる理由、悩んでいる理由の正体を、見事に引き出してきた。
ちゃんと、僕に質問を投げかけながら、僕の言葉でそれらは引き出された。
事象はすべて違うが、すべては「他者の評価」から発生している。
確固たる「自分による、自分の価値の評価」が欠落していることによる自信の喪失。
全て同じ価値観というか、評価観が原因であったことに気づいた。
独立したころの話を良くしたこともあり、仲間は、
「あの時のキミを動かしていたものは何か?」
と問うてきた。
それは、反骨精神でもあり、負けず嫌いな自分であり、必ず道はあると信じている自分であった。
過去の自分に「大丈夫だよ。俺。必ずやっていける」と、頭の中で、
悩んでいた中学生の俺に肩を抱いて励ました。
いいものは、必ずある。
人に貢献できる自分は、必ずある。
幸福を感じられる自分は、必ずいる。
今までも、意識、無意識問わず、それを信じてきて、突っ走ってきた。
自分は、今までも「大丈夫」だった。
だけど、自分が何を使っていたのか、自分の特徴がどうであったのか、
それをしっかり理解していなかった。
だから、突然、ぽかんと、自分で掘った落とし穴にずっぽりはまってしまった。
誰かの穴ではない。
そして、自らの穴から這い上がれずもがいていたが
ちゃんと見回してみたら、這い上がるロープが、まったく違うところにあった。
あるはずなのに、ちゃんと見ていなかった。
ちゃんと使い方を心得ていなかった。
自分をしっかり、知らなかった。
仲間は「いろんなものが、必要な事柄、どんどんこれから降りてくるよ」
と。
鋭敏すぎる感性ゆえに、あやうい自分。
でも、その特性を熟知すれば、頭でっかちで知っていたことが
すっと腑に落ちて、自分のスキルとして昇華する。
長い付き合いの中で、その仲間とはいろんな場所を共にしてきた。
いいことばかりではなく、顔も見たくないほどに、大喧嘩をしたこともあった。
でも、こうして心から相談したいときに、そいつの顔が浮かんできた。
仲間の、友達のありがたさを痛感している。
「カンフル打ったので、始まったね」
と今朝LINEが来た。
これからはじまる。